諏訪原城跡からスタート。すぐに「小夜の中山」への道に入る。平成の道普請で新しく整備された菊川坂の石畳を下ると、静かな間の宿・菊川(金谷と日坂の中間)がある。間の宿では宿泊は厳禁されていたという。
小夜の中山への道の周辺には山肌にお茶畑がつづいている。「世界農業遺産 茶草場の里」という看板がある。はるか山の上に「茶」の文字がみえる。峠の茶農家の人に「茶草場というのはなんですか?」とたずねた。「ススキやササを刈り取って茶畑のうねに敷くことですね。まあ、伝統的な有機農法です」。2013年に世界農業遺産に指定されたという。
峠の道には、「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」(阿仏尼・十六夜日記)、「年たけて また越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山」(西行法師・新古今和歌集)など古くからの歌が詠まれた石碑がめだつ。
峠の久延寺境内には伝説「夜泣石」がおかれている。また掛川城主山内一豊が徳川家康を接待した茶亭跡もある。峠の右側の山麓には一面茶畑がひろがる。峠を下るとやがて日坂宿(掛川市)に着く。25番目の日坂宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒、人口750人(1843年資料)の小さな宿場であった。本陣・脇本陣跡、問屋場跡などていねいに解説がされている。江戸末期の旅籠の面影を残す「川坂屋」もある。日坂には高札場の復元があり天保年間の高札のなかみが読みとれる。
やがて道は事任八幡宮へ。この神社には高さ31m、枝は三方に大きくひろがるみごとなクスノキがある。さらに道をひたすら歩くと掛川宿の「七曲り」に着いた。道は折れ曲りいかにも城下町の入口だ。七曲りの終点には、城下町にやってくる人や物を取り締まる番所があったという。
日が暮れる前に、まずは掛川城天守閣へ。天守閣ができたのは豊臣秀吉支配下の山内一豊の時代。その後、徳川幕府になると譜代大名が城主(幕末・5万石)を務めている。この天守閣も安政の東海大地震(1854年)で大半が壊れてしまった。いまの天守閣は20年前に木造で140年ぶりに再建された。
天守閣から目の下に御殿がみえる。この御殿も大地震で倒壊し、幕末に建てられた。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国に4か所しかないという。御殿は儀式、公式対面所など藩の公的な場所。用途に応じていろいろな部屋がある。立派な建物だ。ここ掛川宿は掛川城におされてか本陣跡などを訪ねてもわかりづらい。