JR六合駅からスタート。まずは島田宿の東見付跡をへて蓬莱橋を訪ねた。旧東海道とはかなり離れているが、蓬莱橋は1997年「世界一長い木造歩道橋」(全長897.4m、通行幅2.4m)としてギネス社に認定されている。
大井川は徳川幕府によって架橋は禁じられていた。木造橋が完成したのは明治12年(1879)であった。橋には低い欄干があるだけで下をみるとちょっと怖い。いまの大井川の水量は上流のダムの影響で少ない。だが、明治初期は満々と流れていて小舟で渡るのも危険だったに違いない。
もどって島田市街へ。島田宿は本陣3軒、旅籠48軒。下本陣の建坪は271坪、上・中本陣も240~260坪あった。参勤交代の行列は、数百人から千人以上になったと思われるが、本陣や旅籠だけではとても収容できない。そのため下級武士、女中、中間などは旅籠、商家、寺、あるいは農家などに分散して泊まったという。
大井川の洪水、水害を守る大井神社は、毎年10月に豪華な丸帯を大太刀につるして歩く大やっこの「帯祭り」で有名だ。境内には「大奴」「三番そう」のみやびな像がある。
やがて和風造りの島田市博物館分館がみえる。だが残念、きょうは休館日。この周辺には国指定史跡の「大井川川越遺跡」がある。大井川は江戸の防衛のために渡船、架橋も禁止された。流れが急で旅人では川を渡るのは危険なため、両岸には川越しを手助けする職業があらわれた。
川越遺跡には「川会所」「仲間の宿」「札場」「二番宿」などの建物が復元されている。大井川の川幅は1km以上もある。川を渡る方法には、肩車や蓮台などがある。安いのは川越人足の肩車、高いのは担ぎ手16人の大高欄蓮台まである。川札(人足に払う料金)は、川の水深によって細かく定められている。その日の水深を計り、料金、通行順番など川会所の川役人が管理していた。川越人足は島田・金谷にそれぞれ350人と定めていたが、幕末には約650人に増えていたという。川越制度はまさに地元の一大産業といえよう。
大井川の常水は約76センチ、これが人足の肩を越えると川留めとなった。洪水や大雨で水深が深くなれば両岸の宿場で何日も宿泊せざるをえない。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」となる。旅人にはつらいが、宿場の経済効果は大きい。
いまの大井川の水量は少ない。上流にダムができて江戸時代とは想像がつかない水量の減少になっているだろう。橋を渡って金谷宿(島田市)に入る。ここは大井川の対岸の宿場。本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒があった。
本陣跡などをみた後、金谷坂の石畳を上ると諏訪原城跡がある。この城跡は武田勝頼が築城した山城で武田・徳川両軍の激戦地だった。訪ねてみると、地形を利用した土塁、馬出しなどが残っている。いまも発掘調査をしていた。秋も深まり午後5時前に日が暮れて、すでにあたりは暗くなってきた。