旅日記

2015年1月30日(金)草津→大津へ 18.4km

掲載日:2015.01.30

2015.1.30 JR瀬田駅8時半出発。朝から雨が降っている。大津宿へ歩いていくと、琵琶湖にかかる「瀬田の唐橋」がみえてきた。この橋は近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つだという。ゆるやかな流線型の橋だ。橋の近くの碑に「この地は平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)がムカデを退治したところ」とある。
 JRと京阪の石山駅についた。駅前に「東海道を旅する芭蕉」の案内板と旅姿の芭蕉像がある。案内板には「伊賀上野に生まれた芭蕉は42歳のとき、はじめて大津を訪れた。大津に滞在していた芭蕉のもとに門弟が集まり、湖南蕉門が形成された」とある。
 膳所(ぜぜ)城が近いのか、東海道は曲がり道が多くなってきた。琵琶湖の湖畔にある膳所城跡公園を訪ねた。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、湖上の船運を抑える目的で城をつくった。江戸時代は本丸、二の丸御殿、三の丸などがあったが、いまはその面影はない。
 雨のなかをふたたび歩きはじめた。途中、石坐(いわい)神社にたちよった。この神社の創建は平安時代といわれ、本殿は鎌倉時代のもので、滋賀県の指定文化財になっている。少し歩くと、「膳所城北惣門跡」の碑があった。
 やがて左側に国指定史跡の「義仲寺」がみえてきた。この地で討死した鎌倉時代の木曽義仲の墓がある。また義仲の側室・巴御前の塚がある。さらに大坂の地で亡くなった松尾芭蕉の遺骸は、遺言にしたがって義仲寺に葬られた。境内には義仲と芭蕉の墓が並んでおり、芭蕉の門人が「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という句をよんでいる。境内には芭蕉の句碑が多くある。
 さらにすすむと「札の辻」(東海道と北国海道の分岐点)の手前に「露国皇太子遭難地碑」がある。明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に警備中の津田三蔵巡査がサーベルで斬りつけた現場。大津事件といわれている。この事件は大国ロシアを恐れる政府が大逆罪で巡査を死刑にするよう迫ったが、大審院長は刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立をつらぬいた。
 札の辻を左にまがると大津宿本陣跡の碑がある。53番目の大津宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒、家数3650、人口1万4892人(1843年資料)という大きな宿場であったが、いまは宿場の面影はまったくない。
 逢坂峠をのぼって京都へ。この逢坂は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社などがすでにあったという。途中、逢坂常夜灯、逢坂山関跡碑をみて京阪京津線の無人駅の大谷駅から宿泊先へ。いよいよあすは三条大橋を渡ることになる。

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