きょうは早朝から浜松城へ。徳川家康が元亀元年(1570)に築城し、駿府に移るまでの17年間をすごした城だ。石垣は自然石を複雑につんだ堅固な野面積みで、敵が攻めてきても上りづらい構造になっている。石垣は築城当時のものだ。天守閣は江戸前期にはあったが、いまの天守閣は昭和33年(1958)につくられている。
浜松宿は本陣6軒、旅籠94軒、人口は5964人(1843年資料)という大きな宿場であった。いまは高層ビルの谷間に高札場跡、杉浦本陣跡などの案内板があるだけで宿場の面影はまったくない。ちなみに浜松市は1945年2月~6月に何回も空襲にあっている。
伝馬町さきの成子交差点を右にいくと子育て地蔵尊、さらにすすむと二つ御堂などの案内板がある。このあたりは海(遠州灘)に近いので海抜2.1mの標識がある。JR高塚駅近くには、領地境界の標柱「従是東浜松領」、「麦飯長者跡」などの案内板がある。
道を何キロも歩くと森石神社がみえる。この交差点からちょっと寄り道して中村家住宅を訪ねた。橋を渡ると浜名湖の一部がみえる。中村家住宅は貞享5年(1688)頃の建物で、寄棟造りの国指定の重要文化財になっている。家康の側室の子がここで生まれている。きょうは休館日とわかっていたが、「どんな屋敷だろうか?」と興味をもった。大きなかやぶきの屋根はみえるが高い塀にかこまれてほとんどみえない。長屋門でがまんするしかない。往復4km近い寄り道であった。
やがてJR舞阪駅近くにちかづいた。松並木がみえてきた。この旧東海道松並木は700mもつづく、じつに立派な松並木だ。近くに見付石垣がある。宝永6年(1709)の古地図にすでにあったという。見付はいわば見張り場所なので人馬をチェックしていた。もう舞坂宿(浜松市)だ。舞坂宿は新居宿までの今切渡しの渡船場で、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒があった。舞坂宿には渡船場は3ヶ所あったという。
一里塚(江戸から67里)、仲町常夜灯などをみて、舞坂脇本陣の内部を見学した。天保9年(1838)建築であるが、明治3年の宿駅制度廃止後は役場として使用されたこともあった。その後、脇本陣は解体復元された。間口5間・奥行15間で、いわば「うなぎの寝床」の形になっている。
舞坂漁港には小さな船がたくさんつながれていた。ここまで来ると海(遠州灘)をみたくなる。帰宅途中の中学生に道を聞くと、「案内します」と一緒にきてくれた。砂浜のかなたに海がみえる。浜名湖は明応7年(1498)の大地震で砂州が切れ、海とつながった。そのため昔は船着き場から船に乗ることになる。この渡しを「今切ノ渡し」という。あすは対岸の新居宿を歩くことになる。