新蒲原駅スタート。駅近くに歌川広重が描いた「蒲原夜之雪」の碑がある。蒲原宿は本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、人口は2480人(1843年資料)いた。それほど大きくはないが、みどころは沢山ありそうだ。問屋場跡、本陣跡などがコンパクトにみられる。
たとえば、旅籠和泉屋は天保年間の建物で、安政の大地震でも倒れなかった。江戸時代の旅籠の面影を残している。また明治42年(1909)建築の手作りガラスと総ケヤキの磯部家、高札場跡などがわかりやすく案内板に説明されている。
大正時代の町屋を洋風に増改築した旧五十嵐歯科医院は、外観は洋風、内観は和風になっている。ガラス窓が多く、モダンな建物だ。志田家は味噌や醤油の醸造を営む商家。国登録有形文化財が軒並み4件ほどある。町並みも連子格子のある家など落ち着いたふんいきをかもしだしている。
蒲原宿をすぎるとすぐ由比宿(静岡市)だ。由比宿は品川から数えて16番目の小さな宿場、江戸から約150キロある。由比宿で「御七里役所跡」をはじめてみた。この跡は紀州徳川家のもので、江戸~紀州間(約584km)を七里(28km)毎の宿場に飛脚をおいたという。いわば紀州徳川家の独自の伝達機関だ。普通は8日間、特急は4日間で到着したという。
本陣跡はいま、東海道広重美術館、由比宿交流館などになっている。美術館には浮世絵師歌川広重の版画等が展示されている。広重の「蒲原夜之雪」、これから歩く「由比薩埵峠」の作品はよく知られている。美術館前には、江戸初期からつづく正雪紺屋がある。ここは由比正雪の生家といわれている。軍学者の正雪は幕府の政策批判、ふえつづける浪人の救済をかかげて、慶安4年(1651)の「慶安の変」のリーダーで幕府転覆をはかったが仲間の密告で失敗している。
連子格子の家がつづく静かな狭い道路を歩くと、やがて望嶽亭(茶屋)がある。茶屋の主人は、官軍に追われた山岡鉄舟をかくまい逃がし、清水次郎長に身柄を託したという。ここから薩埵(さった)峠越えがはじまる。どんどん上ると左手に駿河湾がみえる。大きな青ミカンが沢山なっている坂を上っていく。薩埵峠の道は上・中・下など4つのルートがあったという。
眼下はるかかなたに東名高速、国道、東海道本線がみえる。晴れていれば富士山がくっきりみえるはずだ。峠道には「日本の大動脈~地すべり対策事業」の看板がある。10月6日の台風18号で、東海道本線の由比と興津間で土砂崩れがあって長い間不通になった。この峠の展望台で一休み。そして細い山道を下りると興津の道路へ。このあたりは海抜4.7m。峠をずいぶん上ったつもりだが、資料によると峠の標高は244mだ。
興津駅近くの宗像神社にお参りした。女体の森ともいわれ、その昔地元の漁師は、神社の森やクロマツを目印にしたという。神社近くに身延山道の道標がある。駿河と甲斐を結ぶ交易路だが、身延山久遠寺への道でもある。さらにすすむと東本陣跡(興津宿公園)の案内板がある。この興津宿(静岡市)は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠34軒があった。いま広い道路に歩道が整備されていてその面影はまったくない。