用語集

街道用語アレコレ

 この用語は、東海道にある各自治体の教育委員会が史跡の解説をした案内板などを参考にして作成した。

東海道宿村大概帳

 江戸幕府の道中奉行所が宿駅を調査した記録。本稿のなかに示された本陣などの軒数は、天保14年(1843)の調べである。「大概帳」には各宿駅の男女別人口、宿内の戸数、本陣、脇本陣の坪数、旅籠屋の数、街道筋の村落の状況などが詳しく記載されている。

宿場

 東海道は慶長6年(1601)に品川宿から大津宿までの53次が順次整備された。宿場は旅人が泊まったり休んだりの場でもあったが、重要なのは公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務があった。問屋場の役人がその任務にあたった。そのため人馬を常に用意していた。宿場には本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋、商店、高札場、見付(木戸)などがつくられた。小田原、浜松など城下町の一部を宿場にした例もあるが、箱根宿のように宿は小田原宿、三島宿から集めてつくったのもある。幕末の天保14年の資料によると、東海道53次の総人口は19万5748人、家数は4万7961軒、本陣111軒、脇本陣68軒、旅籠屋2988軒、問屋場65ヶ所があったという。

本陣・脇本陣

 天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、東海道には本陣111軒、脇本陣68軒、旅籠屋2988軒があった。本陣は大名や武士、公家など身分の高い人が宿泊・休憩する施設。二川宿本陣馬場家(豊橋市)、草津宿本陣田中家(草津市)などが見学できる。脇本陣は大名等の休泊のないばあいは、他の旅籠屋と同じく一般の旅人も泊めた。本陣を補佐する脇本陣の場合は、規模が小さく、門構え・玄関・上段の間のどれかを欠いた例が多い。参勤交代の大名は数カ月前から予約をしていたという。

問屋場

 江戸幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていた。宿場ではこの業務を遂行するための人足と馬を用意するように定められていた。問屋場には、問屋、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方などの宿役人が詰めていた。

旅籠屋

 公用でない武士や庶民などの旅人が宿泊した施設。一泊二食付が原則。米を持参して自炊する形式の木賃宿とは区別される。赤坂宿(豊川市)には成徳6年(1716)建築の旅籠・大橋屋がいまも営業している。東海道の旅籠は蒲原宿(静岡市)の和泉屋、岡部宿(藤枝市)の柏屋、新居宿(湖西市)の紀伊國屋などで見学できる。宿泊代は江戸時代中期の幕府が定めた料金は、「主人一人35文、馬一匹35文、従僕一人17文」。ちなみに本陣・脇本陣の宿泊料は泊り代、座敷代、心づけの三種類あるが、幕府の料金規定はなく、大名は現金払い、公家は自筆の色紙・短冊などを用いたという。

見付

 もともとは城下に入る門を示すが、宿場の出入口には「見付」とよばれた施設があった。一般的に宿場の見付は、土台部は石垣で固め、土盛りされた上には竹矢来がくまれていた。江戸側を江戸見付あるいは東見付、京都側は京見付、西見付ともいわれる。この東西見付が宿場の町並みとなり、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠屋、商店などがあった。

高札場

 幕府が法令や禁令を板札に墨書きした高札を掲示した場所。宿場など人の往来が多い所に掲げられている。例えば、正徳元年(1711)の高札には、駄賃並びに人足賃、忠孝を奨励する定め、切支丹禁制の定め、火付重罪の定めなどがある。復元された高札は、日坂宿(掛川市)、赤坂宿(豊川市)などでみられる。

参勤交代

 江戸幕府は寛永12年(1635)諸国の大名を統制する手段として参勤交代を制度化した。大名は幕府から江戸屋敷を与えられ、妻子はそこで暮らし、江戸を離れることはできなかった。大名は江戸と領地(国元)を原則的に1年交代で往復した。例外は、対馬藩は3年に1回参勤など、水戸徳川家、定府などは参勤交代はしない。参勤交代の経路は幕府によって定められていて、許可なく他の街道や寄り道はできなかった。東海道が一番多く、148家の大名が利用した。なお大名行列の人数は大名の石高に定められていた。例えば、10万石であれば馬上10騎、足軽80人、中間人足140~150人となる。

関所

 幕府が全国に設置した関所は53ヶ所、そのうち東海道には箱根関所と新居関所(湖西市)の2ヶ所があった。一般に関所では、「入り鉄砲と出女」といわれるが、とくに江戸方面からの「出女」(大名の妻子)は厳しく調べたという。諸国へ旅する場合は、往来手形(お寺や村役人が旅の目的、行き先などを書いた書状)を持って出かけた。女性が関所を通るときには女手形が必要で幕府や特定の大名が発行した。銃を持っているときには鉄砲手形が必要。箱根関所は明治2年(1869)に廃止されたが、2007年に復元整備された。新居関所の建物は幕末の建築で、全国唯一の現存する関所建物である。

一里塚

 一里塚は、慶長9年(1604)に築かせた一里毎の里程標。その起点は江戸の日本橋。一里塚(約4キロ)の役割は、①旅人が距離を知るための目安②駕籠の値段の目安③街道における休憩場などがあったという。日本橋から三条大橋までの距離は126里余(約492km)ある。9里目の品濃一里塚(横浜市)、28里目の錦田一里塚(三島市)、37里目の岩淵一里塚(富士市)、80里目の大平一里塚(岡崎市)、105里目の野村一里塚(亀山市)が原形に近い。塚にはエノキや松などが植えられている。

街道並木

 東海道といえば松並木が連想される。江戸幕府は慶長9年(1604)に五街道の並木と一里塚の設置を命じた。東海道の並木は、箱根の杉並木、舞阪宿と新居宿、御油宿と赤坂宿、知立などの松並木がよく知られている。並木は旅人の休息場所、夏の暑さ対策にもなった。松枯れなどから、幕府は松並木の維持管理に関する法令をたびたび出していたという。明治以降は道路拡張で多くの松並木が伐採された。また戦時中は航空ガソリン(松根油)に使うとして切られた松並木もある。

川越し

 東海道には小さな川、大きな川がある。江戸時代の中小河川には石橋、土橋、木橋などがある。橋がない大河川は渡し舟を利用するか、川越人足の手を借りて渡る方法がある。酒匂川、安倍川、大井川などは架橋、渡船が禁止されていたので、川越人足の肩車、蓮台に頼った。例えば大井川の場合は、川合所で川札を買い、川越人足に手渡してから川越しした。川札の値段は水の深さと川幅で決められた。大雨で川の水量が多いときは、川越しは禁止され、何日も川留めとなり余分な宿泊費もかかった。川越しは明治3年(1870)に通船が許可されて廃止になった。

間の宿

 宿場の距離が長いとき、または急所難所が多いとき休憩所の便宜が図られた。例えば金谷宿と日坂宿は一里半ぐらいだが、急坂があるので「菊川宿」が設けられた。間(あい)の宿では宿泊は禁止されたという。池鯉鮒と鳴海の中間には間の宿・有松は、いまなお江戸時代の面影を残す建物が多い。

飯盛女

 飯盛女は文字通り「飯を盛る女」ではあるが、実質は旅籠屋で男性相手に夜の相手をしていた。江戸幕府は吉原遊郭などの公娼施設を認めたが、公娼と私娼を明確に区別していた。そのため何回か法令をだしたが守られていない。享保3年(1718)旅籠屋1軒につき飯盛女2人を限度に「黙認」(許可)したが、効果はいかほどか不明だ。旅籠屋は一般に平旅籠と飯盛旅籠に区別される。凶作などで身売りされた飯盛女の墓は藤沢宿の永勝寺、御油宿の東林寺にある。また歌川広重などの浮世絵にも飯盛女が描かれている。


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