東海道53次とは?

宿場の役割


 天下を握った徳川家康は、全国統一の一環として交通網の整備を始めた。慶長6年(1601)まず東海道に宿場を設置し、宿場ごとに「伝馬朱印状」と「伝馬定書」をだした。その後、中山道などの主要街道を整備していく。
 伝馬(てんま)とは、宿場が用意する輸送用の馬のこと。この宿場の朱印状と同じ印を押した朱印状を持つ者に人馬を無償で提供するよう命じていた。また伝馬定書には常備すべき伝馬の数などが書かれている。こうして用意された人馬で、幕府の役人や公用荷物、書状などを宿場ごとに、リレー方式で迅速に運ぶことができた。これを宿駅伝馬制度という。この仕事を請け負うのが問屋場の宿役人。これが本来の宿場の大きな役割だ。
 各宿場には本陣、脇本陣、問屋場、旅籠屋、お店などができた。東海道の場合は日本橋から三条大橋まで126里余(約492km)の距離がある。この間に品川宿から大津宿までの53次が設けられた。「次」はこの宿駅伝馬制度からきている。
 全部の宿がすぐ設置されたのではなく、最後の庄野宿(鈴鹿市)は寛永元年(1624)にできた。場所も、高波などで2回も変えた吉原宿(富士市)、津波で高台に移転した白須賀宿(湖西市)もある。江戸幕府が大名の参勤交代を制度化したのが、寛永12年(1635)からだ。

問屋場の人馬


 東海道の宿場には、「伝馬定書」で示された常備の人馬がいた。問屋場(といやば)の人馬を朱印状持参人は優先して無償で使えた。その他の幕府の役人などは幕府の定めた金額(お定め賃銭)で雇うことができた。また一般の旅人や商人はお定め賃銭の約2倍の金額で雇うことができたという。荷物専用の馬で40貫(約150kg)、人ひとりと両側に荷物20貫(約19kg)が運べた。また人足も荷物運びに使えた。


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