10月6日、浜松に上陸し関東を横断した台風18号の影響で、東海道線の由比と興津間で大規模な土砂崩れが起きて、富士駅と興津駅の区間が不通になっている。来週はふたたび大型台風19号が上陸の予定だ。そのためくぎりのよい吉原まで歩くことにした。
原駅を朝8時前にスタート。原宿(沼津市)は本陣1軒、旅籠25軒の小さな宿場だった。高札場跡(法令や禁令を板面に墨書きし知らせた)や渡辺家本陣跡の説明板がある。近くの浅間神社ではテントをはって祭礼の準備中。吉原への道では祭礼の縄を各家屋の入口に張っているなど、町内会役員の活動が多くみられた。
静かな町並みの右側は富士山がきれいにみえる。東田子の浦駅近くに植田新田開拓碑がある。幕府は街道の整備、農民の定着、食糧増産の目的で新田を開拓した。所沢にも300年余前の元禄時代に大規模な三富新田が開発され、一戸分は約5町歩の地割になっている。
東田子の浦駅には間(あい)の宿・柏原の本陣跡がある。近くの立圓寺に寄った。立派な門をくぐると望嶽碑がある。説明板によると、文化5年(1808)尾張藩の典医・柴田景浩はこの地から望む富士山の美しさに感銘を受け、望嶽碑を建立したとのこと。その隣には、1979年10月19日、台風20号の強風と高波のため柏原海岸の砂浜に打ち上げられ座礁した大型貨物船グラティック号(約6千トン)遭難の碑がある。
またしても町並みをそれて松並木に足がむいた。すぐ千本浜(駿河湾)がある。海なし県のぼくはついつい海をみたくなる。テトラポッドには高波が押し寄せている。「海岸浸食対策」(国土交通省)の「自然の力は想像を越える」の看板には座礁船の写真もあった。
幕末に排水路の大工事をした増田平四郎の像、また昭和放水路をみて、いよいよ吉原駅に近づいた。近くには田子の浦港がある。奈良時代の歌人・山部赤人は「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」と詠んでいる。
駅前で、港がみえる丘があると聞いて歩くと、小さな公園に最近できた富士市の津波避難タワーがあった。きょうは東日本大震災から3年7カ月目。タワーの高さは15m(海抜19.3m)。扉は自由に出入り可なので上ってみた。階段を上がっていくのだか、パイプつくりなので景色がよくみえる。ビルの階段とは違い、足がすくみちょっと怖い。タワーの屋上には100人ぐらい入るスペースになっている。
港のみえる公園に元吉原宿の説明文がある。それによると、江戸時代以前から吉原湊は軍事的、商業的にも重視されていたが、高波や砂丘からの砂がひどく、天文年間(1532~1554)に、いまの鈴川、今井地区に場所替えした。その後、中吉原宿、そして吉原宿に移ったという歴史がある。次回はその歴史の跡をたどることになる。