旅日記

2014年10月20日(月)吉原→蒲原へ 20.2km

掲載日:2014.10.20

2014.10.20 吉原駅(富士市)9時半スタート。きょうから2泊3日の予定だ。天気予報では「晴れのち曇り」であったので、左富士を楽しみにしていた。だが残念、朝から曇り空。河合橋を渡り東海道新幹線のガードをくぐると小さな左富士神社がある。コンパスを見ると確かに道は北にむかっている。やがて左富士の碑。歌川広重の描いた「吉原左富士」もあるが、周辺はいまや工場街。トラックの往来も激しい。
 やがて平家越の碑が橋の手前にある。源平合戦の時、迂回した源氏軍に驚いた大群の水鳥が飛び立ち、その音に平家軍は驚き戦わずして退却したという。これも伝説なので疑えばきりがない。
 前回もふれたが、14番目の吉原宿は高潮などの災害のため、海岸近くの元吉原、そして中吉原、吉原へと移り変わっている。吉原宿は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒(1843年資料)あった。だが、かつての宿場のふんいきはまったく感じられなかった。整備された吉原商店街の歩道のタイル張りに目をやると、小さなレリーフに脇本陣跡、旅籠跡というのがある。よほど気をつけないと見過ごしてしまう。
 商店街をぬけ、高安橋を渡り、間の宿・本市場(吉原宿と蒲原宿の間で茶屋も多くあった)をへて、JR身延線の踏切をわたると常夜灯と道標がある。慶応元年(1865)に建てられたこの秋葉山常夜灯は芸術的なつくりだ。ちなみにこの先の常夜灯も画一的ではない。近くの公園の土手に上がってみた。コスモスが咲き乱れていた。晴れていれば雄大な富士山が楽しめるだろう。
 土手を下りると富士川橋へ。橋の手前に渡船場跡と水神社がある。富士川を渡るときは3ヶ所に船着き場があり、川の状況により使い分けていたという。富士川の渡舟は慶長7年(1602)から大正13年(1924)までつづいたので300年余の歴史がある。神社脇から川岸に下りてみた。水は波しぶきをあげて流れている。富士川橋の橋けたにはテトラポッドがおかれている。ものすごい水量と急流だ。
 橋を渡って間の宿・岩淵へ。左に曲がったため、めざす間の宿・岩淵の「小休本陣常盤邸」が見つからない。近所の人に聞くと、「すぐ近くですよ。橋を右にまわればよかった」と。旧道はほんとうにわかりづらい。安政元年(1854)の大地震後に再建されたという立派な門構えの家が常盤邸である。ここは富士川渡船のための一時休憩所になった。さらにすすむと江戸から37番目の岩淵一里塚がある。塚にはエノキの大木があり原形の面影がある。この塚は静岡県の史跡に指定されている。
 いよいよ蒲原宿に近づいてきた。静かな町並みに北条新三郎の墓の案内板があった。階段を上っていくと、薄暗い木立のなかに小さな墓。この墓は、永禄12年(1569)蒲原城は武田軍に攻撃され落城した、その城主の墓(三島の祐泉寺にもある)。小田原城主の稲葉一族の墓は荒れていたが、ここの殿様にはいまでも新しい花が墓前におかれていた。
 蒲原宿(静岡市)に入ってきた。大きな日軽発電所送水路が目につく。もう夕方になってしまった。渡辺家の珍しい三階建の文書蔵、古い商家(和菓子屋)の吉田家などを見学。蒲原には宿がないので由比泊。

写真

地図・経路



エリア選択





TOP