旅日記

2014年9月29日(月)小田原→箱根湯本へ 22.8km

掲載日:2014.09.29

2014.9.29 国府津駅朝8時30分スタート。快晴できょうも暑くなりそうだ。相模湾沿いの広い海をみたい。小さな路地に入って西湘バイパスの下から浜辺に行こうとしたら、防潮堤扉が閉まっていた。ご近所の人に聞くと、はるか東の海上にすすんでいる台風17号の影響とのこと。もっとすすんで小田原城近くの「御幸の浜」までいけば入れますよ、と。
 いくつかのお寺によってすすむと酒匂川に到着。橋の長さは300mぐらいだろうか、昔は渡しがあった川だ。橋を渡りどんどん歩くと、江戸口見付と20番目の一里塚の案内板がある。小田原宿は小田原城がある城下町。新宿の交差点を左にまがって旧東海道を歩く。小田原名物のかまぼこ店がめだつ。
 小田原宿は本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒(1843年資料)があった。宿泊者も多いので、土産物や必需品などを売る店も多かった。「小田原宿なりわい交流館」に貼ってある宿地図の清水金左エ門本陣(屋敷面積約410坪)の平面図をみるとその広さがわかる。宿泊した大名は、尾張徳川、鹿児島の島津、熊本の細川などが泊まっている。
 いまでも同じだが、気になるのは宿場の料金。小田原城の一角に小田原市郷土文化館がある。そこに江戸時代中期の宿場の旅費が書かれていた。本陣・脇本陣(大名、公家、公用の役人など)の宿泊料金は、大名は現金支払い、公家は自筆の色紙など、いくら支払うかは幕府の規定にはなかったようだ。旅籠の料金、駕籠の代金などは金額が書かれていた。
 この郷土文化館の別館になる松永記念館も訪ねた。箱根湯本にむけて静かな旧東海道を歩くと記念館がある。電力王ともいわれた松永安左エ門(1875~1971年)の敷地。ぼくが住む所沢市には、彼が戦前に別荘とした柳瀬荘がある。敷地内には江戸時代後期の名主の民家「黄林閣」がある。いまは国立博物館が管理している。
 松永さんは戦後(1946年)小田原市に居住した。実業家でもあり茶人(号は耳庵)でもあった。茶室や庭園を見学したが、ぼくは妙なものに心ひかれた。それは松永さんの遺言状。「何度も申しおく通り、死後一切の葬儀・法要は嫌い。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階これはヘドが出るほど嫌い。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです」。明治生まれらしい生き方だ。
 箱根登山鉄道の風祭駅近くの21番目の一里塚をみて、さらにすすむと長興山招太寺の説明板があった。今は小さな寺でしかないが、江戸時代は大寺院であった。案内板に「稲葉一族の墓所」とある。午後4時半を過ぎていたが、長い石段を上り、さらに石畳みの坂、また石段といくにつれ、石段に草が茂っている。本当にあるのかな、と思いながらすすむと、招太寺の伽藍跡の説明文。さらにいくと樹木は折れ、倒れている墓石がある。ここに53年間つづいた小田原藩主と春日局のお墓。稲葉正勝の母は3代将軍家光の乳母をつとめた。
 荒れはてた殿様の墓地をみていたらあたりは暗くなっている。ちょっと寄り道にきょうも時間をとられた。道は少しずつ坂になり、やっと箱根湯本駅に到着した。

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